![]() |
森村 泰昌(美術家)
記憶を記録する写真家、石内都。
石内さんは、遺品を神話化された特別な存在としてではなく、文化人類学者におけるフィールドワークのように、冷静なカメラアイを被写 体に向
け、「青い家」に充満する濃厚なフリーダ神話を振り切って、撮影を続ける。
コルセットという悲劇でさえ、意外なほど軽やかな空洞感覚として写真化する。フリーダの体はもうそこには存在しない。死とともに誰もが塵と
なる。そしてどこかへと散っていく。残された空洞には風と光が舞い込み、すべては浄化される。不在の空洞は、もはや特定の個人の専有物では
なく、誰でも在り得、また誰でも在り得ない風と光の宇宙である。
重い記憶を記録する写真家である思われている石内都の根幹にある、この覚悟の出来た人の見事なまでの透明感を見過すごしてはなるまい。
諏訪 敦(画家)
もっとも強烈な生命力を発揮したと記憶される、女性画家の生きた痕跡は、
その死後50年を経た現代において、もっとも繊細な写真をものにする女性写真家の眼ですくいとられた。
刮目すべき女性芸術家たちの、時間を越えた出会いと創作現場に立ち会いながら、更に何を見たのかが
問われているのだが、小谷監督に特徴的な、思慮に満ちた距離感覚が描き出す映像には、精妙さがゆきわたっている。
若木 信吾(写真家/映画監督)
フリーダ・カーロ博物館のスタッフは皆女性で、その中で撮影をする石内さんは極めて中性的に見える。
もしくは未来からやって来た人のようだとも言える。しかし撮影風景を見ていると時代や慣習を超えて
一番フリーダの近くにいった女性かもしれないと次第に思えてくる。
パリの友人が亡くなられた報告を受けた石内さんの姿を克明に捉えた小谷監督の肝は座っていて感銘したが、
二度目に観たときにはそのシーンは残さない方がよかったのではと感じてしまった。しかしまたその気持ちも変わるかもしれない。
瞬間を捉えたドキュメンタリーというものは観るたびに新たな感情を呼び起こさせるものだ。
上野 千鶴子(社会学者)
「マザー」「ヒロシマ」そして「フリーダ・カーロ」…
不在の身体の記憶を時間と共に浮かび上がらせる写真家、石内都が、自ら徹底的に被写体になった!
若い男性監督との、世代を超えたもうひとつの出会いの記録。
飯沢 耕太郎(写真評論家)
誰かが着た衣装は、その人の記憶をまつわりつかせた”しるし”を帯びている。
まして、それがフリーダ・カーロの持ち物だとしたら、それは特別な呪術性を発するオブジェとなるだろう。
だが石内都は、それらをあたかも自分の身近にある被写体のように、軽やかに、優しげに撮影している。
オアハカの衣装は、フリーダ・カーロという呪縛を逃れて、自由に、ふわふわと宙を舞っているように見えた。
木内 みどり(女優)
少女。顔の半分は白黒に塗った骸骨、もう半分はかわいい素顔。冒頭のこの映像でスイッチが入ってしまった。
すりガラスを横に移動してから写る、古臭い浴室。ナレーションが入るタイミングも音楽もみんなみんな好き。
木の葉を揺らす風と、その影。窓の外、干された洗濯物が風に揺れる。まるで透明なフリーダ・カーロその人がゆらゆらさせているかのよう。
石内 都さんが起こす小さな風を丁寧に映像にしてくれた小谷忠典監督に拍手を送りたい。
七里 圭(映画監督)
痛みは不意にその痕跡を現すものだなあと、青くて赤い、壁とドレスを見つめました。
石内都がファインダーの向こうに見ている何かを、弦の歪んだ音が風景に響き渡るたびに感じたような気がしました。
青野 賢一(BEAMS クリエイティブディレクター、執筆家)
綻びを繕いながら長く愛用した服には、当然のことながら着る者の意志が織り込まれてゆく。そうして服を着てきたフリーダ・カーロと、そうし
て着られてきた服を、メキシコの光と空気ごとフィルムに収める石内都。ふたりの芸術家を入り口にして、カメラはメキシコ先住民族の服飾文化
とそれを支える人々にもフォーカスしてゆく。
この服飾文化は今も代々受け継がれているわけだが、翻って我々に「遺すべき服」はあるのだろうか?
堀尾 真紀子(文化学園大学 教授/『フリーダ・カーロ 引き裂かれた自画像(中公文庫)』著者)
メキシコの歴史が抱える深い傷を象徴するフリーダ・カーロ、「ひろしま」の記憶を見事に切りとってみせた石内都、
二人の女性が半世紀の時空を超えて対峙するその現場からはひりひりする緊張感と、
いま、このとき、を燃焼し尽くす喜びと誇りが立ちのぼる。
明るい太陽に映えるフリーダの色鮮やかな民族衣装、メキシコの文化が内包する神秘的な魔力、
交錯するその光と影が全編に不思議な魅力を醸している。
丹下 京子(イラストレーター)
写真を撮りながら、石内さんはどんどんフリーダと親密になって魂の中に入りこんで、
さらにそこを突き抜けてもっと大きな大きな怒濤のうねりの中に飛びこんでいって
とうとう何かと繋がってしまったんじゃないかと思う。
映画の中のすべての美しい色たちが目に焼き付いて離れない。
キム・ヨンジン(チョンジュ国際映画祭・エグゼクティブプログラマー)
女性アーティストの遺品の撮影を通して、絵画作品の起源を探る興味深いプロジェクトだ。
この映画は、アートと写真が出会い混ざり合う瞬間を、魅惑的なストーリーに構築している。
佐藤 直樹(東京芸術大学 准教授)
フリーダ・カーロのドキュメントだと思うと驚くだろう。なぜなら、この映画はフリーダと石内都、二人の女性芸術家の
ドキュメントだからだ。すでにこの世を去ったフリーダ自身の生の姿はない。遺された彼女の衣服や靴のみが、石内
のファインダーを通して我々に語りかけてくる。
美術史で語られるフリーダは、痛ましく、かつエロティックな面ばかりが常に強調されてきた。しかし、石内自身が語る ように、美術史が語ってきた彼女のイメージは、撮影するうちに姿を変えていく。徐々にフリーダの偏見が取り除かれ ていく様子を、石内の表情が次第に優しくなっていくのに合わせて我々もまた追体験することになる。この作品は、 女性芸術家同士の共鳴が記録された貴重な美術資料でもあるのだ。 土屋 忍(武蔵野大学教授)
「すべての写真は遺影である」(港千尋)と云われるように、写真には死が内包されている。
スクリーンの中の石内都も、博物館の「遺品」を手にとり蘇生させ、光と風とともに死者たちを召喚し、最新の「遺影」を撮っている。
生成する「遺影」たちは、その土地の衣装を再生し刺繍を施す音風景、それらを纏って始まるダンスとともに、静かに動きはじめる。
この映画は、「フリーダ・カーロ」を完結させないために敢行された原色の葬送儀礼なのだ。
小黒 一三(「ソトコト」統括編集長)
恥ずかしながら、フリーダ・カーロも石内都も、私は全く知らなかった。
でも、このドキュメンタリーに出会って、なんて男前な女達の人生があるんだろうと素直に敬服です。
女を肉体としか見なかったバカな私に、石内のカメラがとらえたフリーダのコルセットが、
青空にポッカリ浮かんで笑ってました。
木下 史青(東京国立博物館 デザイン室長)
映画はタイトルだけ見ていったので、石内都の撮影ドキュメンタリーとは知らなかった。それがかえって新鮮で、フリーダ・カーロにとっつき難
い人にも、石内都の仕事ぶりを通じてすーっと彼女の絵画世界に入っていくことができる。
その成果がParisPhotoで発表される。メキシコから一度場をアートマーケットの本場に移動させることで、石内都を知らない人にもよく理解でき
るんじゃないでしょうか。
向井山 朋子(ピアニスト/美術家)
祖母、母、娘へと受け継がれ、愛着のある服を繕いながら着続けて第二の肌にしていくフリーダ、そしてメキシコの女たち。
『フリーダ・カーロの遺品』はファスト・ファッションが制する時代に生きる私達に、服とは? 着るとは?を考えるヒントを与えてくれる。
石川 直樹(写真家)
服を身につけていた人自身を含め、
対話しようのない被写体と、石内さんがどの ように関係を作っていくのか。
その誠実なプロセスを、本作はごく間近で見せてくれる。
鈴木 芳雄(美術ジャーナリスト)
その女性画家が亡くなったとき地球の裏側にいた7歳の少女は
やがて世界が認める写真家になり、画家の壮絶な人生の痕跡を撮ることになる。
写真家がニコンで撮影しているのは服や靴や薬だが、コダックのフィルムに写っているのは掘り起こされた画家の記憶である。
沖 潤子(刺繍アーティスト)
遺品というものは、なぜここまでつよく主を感じさせるのだろう。
それを感じとる力は、自己の中の母なるものに基づいていると思う。
踵から写されたピンクのブーツがくるしいほど美しかった。
杉野 希妃(女優/映画監督/プロデューサー)
石内さんの肉体を借りて、フリーダが纏っていた衣装に触れ、過去を覗き見る。
遺品の写真から、この世にはもう存在しない肉体が蘇る。
写真や映画という枠を超えて、目の前に浮き上がってきたのは、女同士の共犯めいた絆なのだろうか。
不可視なものを放流させているような、、柔らかさと優しさを帯びた映画だった。
|